茶室の気候哲学 2

茶室のにじり口はなぜ狭いのか。
だれもが一度は疑問に思ったことがあるでしょう。
なぜあんな小さい所にわざわざ身を屈めて潜るようにして入らないといけないのか。
この問いへの一つのこたえは、からだを一度かがめさせることで、
茶室の中の空間を広く大きく感じさせるためだといえます。
ふーん、なるほどなるほど。
しかし、これはよく考えてみますと、なんだか少し変なところがあります。
広く見せたいなら、なぜ小さくつくるのか。
そんなことしなくても、はじめから大きくつくればいいじゃないか。
じつはそこにこそ、お茶の思想の本質があるといってよく、
より簡素で少ないことが、より豊饒である、という考え方がそこにはあります。
そして、茶室の空間には何も無い、だからこそ、そこに自然の豊かさを感じる、

めいめいのなかにある内なる自然の豊かさが見えてくる、という論理がそこには働いているのです。
そうすると、茶室の小さな空間がなぜ宇宙に例えられるのか、
その不思議もなんとなく理解できるのではないですか。
茶室は、私たちの大きさ、私たちの小ささ、私たちの豊かさ、
そして簡素さを逆説的な論理のなかで再認識させる哲学的な装置のようです。

さて、何もない茶室にも室内気候はあります。
何もない茶室なのに、室内気候はある。
これも何だか不思議ですね。
この小さな宇宙にどのような気候を整えるのか、考えるとわくわくしてきませんか。
なんだか生半可な気候ではどうにもぴりっとしない、もったいない気がする。
例えばリビングと一緒の気候じゃあ、ねぇ。
やはり、自然、ということを先ず第一に考えなくてはいけません。
とはいえ、自然をそのまま持ってきてしまえばいいのか、というとそれも違います。
茶室に自然を持ってはいる時は必ず手を加えなければいけません。
それは、生け花しかり、日の光もしかり。自然の中にあるものを最小限、整えて、茶室で眺めてみる。
そうすると、茶室の外では見えなかったものが、見えてくる。

茶室の室内気候は、あなたに何を見せるでしょうか。春でしょうか、冬でしょうか。風でしょうか、空気でしょうか。

PS dialogue 2015.04

 

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