夏気候に浸かる

ぎらぎらと照り付ける太陽が西の山の向こうに沈み、蝉の鳴き声がだんだん小さくなってゆく代わりに、鈴虫の鳴き声がどこからともなく聞こえてくる夏の晩。

日が落ちれば涼しくなるだろうという期待は、東京に長年住んでいれば見当違いであることが分かります。日中に溜まった熱は帰り道を忘れてしまったかのように地上付近に留まり、風がどこかへとはこんでくれることもありません。暗くなってもほとんど気温が下がることはなく、水分を含んだ重い空気が、ただどうすることもできずに空中を浮遊しています。

でも、そんな夏の晩の気候は、夏にしか味わえない贅沢な気候でもあります。夏の晩、縁側やテラスに出たり大きく窓を開けたりしてじっと気候に浸かっていると、ねっとりとした空気がじんわりと肌に染みわたり、だんだん空気と自分が一体となっていく感覚をおぼえます。すると、夏の山や夏の海、いろいろな夏の価値を凝縮したような不思議な香りが漂ってきて、ゆっくり大きく吸い込むと、普段忘れていたことがだんだん蘇ってくるのです。小さい頃に手を引かれて行った夏祭りの喧騒、提灯の明かり、お囃子の音、目に焼き付いたキャンプファイヤーの炎の光。そんな自分を形作った原風景が懐かしさとともに広がって、心の中が浄化されていくような感覚になるのです。

夏の晩の気候に浸かる。それは、夏の愉しみの一つであり、そして夏の気候を享受するライフスタイルでもあります。しかし、ただ晩になるのを待てばいいというものではありません。外の気候の価値に気づき、しっかりと肌身で感じ取るためには、むしろ室内は涼しくて快適でなくれはいけません。夏の室内気候が快適にデザインされていればこそ、夏の晩は、まるで隠していたとびきりのワインを愉しむ時間のように、贅沢で格別な時間になるのです。

PS dialogue 2015.8

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