私の好きな書斎―ジャン・コクトーの家より|後編

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

>> 前編より続く

私たちが勉強するとき、読書するとき、ものを書くとき、ただ座って物思いにふけるとき、どんな空間を欲するでしょうか?

木々の揺れる屋外、美術館の片隅、人々がざわめきあうカフェの一角、静かな家のリビング、様々な場所が、私たちの前に「書斎」として用意されてはいます。そして、あらゆる場所を、即座に自分の書斎にすることのできるフレキシブルな感覚は、決して忘れたくはないものです。しかし、本当に自分が「自身」を取り戻す一つの空間を、「思索の場所」として確保する自由も、やはり忘れずにいたいものです。

人間が暮らす環境は、「機能」という点においては、あまり差はないのかもしれません。コクトーの家にしても、他のどんな有名な作家の家にしても、ほとんど変わりはないでしょう。

しかし、そこに息づく空間を形作るものは、住まう人の明確な意思であり、望みであり、そこで紡いだ時の足跡でもあります。コクトーの書斎に私が魅力を感じるのは、その場所が「人」を表しているからなのだと思います。それは、そのまま「時間」の重みとして、その人の生きた人生を映し出しています。冷たい歴史に体温が通いだすのは、人の想いがそこにあるか否か、それだけの違いなのではないでしょうか。ならば、今生きている私たちが、進行形の空間作りをしなければならないのは、明白な事実のように思われます。

木ヅタがからまる家の前で、バラやシャクヤクの咲き乱れる庭に立つコクトーの写真を目にしていると、「人が家をつくり、家が人をつくる」現実を目にするように思います。思索の場所を持つことが、きっと私たちを今以上に成長させてくれるでしょう。そして、その理想の形は、決して住宅パンフレットの中にも、インテリア特集の中にもなく、自分自身の内側からしか、答えは出ないのだと思います。

私に関して言えば、まずは気に入る木の机を探すところから、始めてみようと思うのです。

 

PS dialogue 2015.03
茂木 彩

 

>>「私の好きな書斎ージャン・コクトーの家から|前編」へ

 

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